2010年12月26日

人身御供を要求する文化

ドラッグラグが話題ですが、他にもデバイスラグ、ワクチンラグなどもある。
癌治療で苦労している人達は、特に患者や家族、関係者は、外国では承認され、そして既に実績もあるような薬を、少しでも速く日本でも健康保険で使えるようにと発言しそして運動もされている。なんとかしてほしい、私たちには時間が残されていないのだと悲鳴さえあげておられる。

しかし、ドラッグラグ、デバイスラグがあるのは、政府の責任にされることが多いけど、本当にそうなのかと、私は前から疑問に思っている。

今、政府、特に官僚は、この手の問題には、羮に懲りて膾を吹くという状態になっている。

薬害、薬害と言い立てて、その責任を製薬会社やその許認可に関わった官僚組織、さらには個人に負わそうとする。被害者という弱者、その味方面したマスコミと大衆がバッシングし、刑事責任まで追求する。司法までそれに影響されて、実際に有罪を宣告されることもあるし、有罪とならなくても、その社会的追求は苛烈を極める。あのミドリ十字問題しかりです。今の肝炎ビールス問題など、まだ程度が軽いとさえ言える、まだ個人へのバッシングが少ないですから。
こういう社会では、パイオニアたろうとする個人、団体(製薬会社、製造会社、官僚個人もそう)の腰が引けるのは当然だろうと容易に理解できる。
もしも有害事象が発生した場合、自分もあのようにバッシングされるのかと思ったら、会社も人も破滅させられるのかと思ったら、今の地位のまま、何もせずにおろうと思うのは当然でしょう。やっているというポーズを見せないといけないので、政府や官僚、議員さん達は、審議会みたいなのを作って、やっているよというのを見せておく。これは、もし有害事象が起こっても、ちゃんと慎重審議をしたよと言えるし、さらには責任分散を計っておけるのだから一石二鳥でもある。そうして時間だけが過ぎていく。これじゃ、ドラッグラグ、デバイスラグが起こって当然です。

日経メディカルブログにデバイスラグ問題と日本の「ノーリスク志向」という記事が載っていた。
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/tedoriya/201010/516763.html
著者:手取屋岳夫(昭和大学医学部胸部心臓血管外科主任教授)
>ここのところ、デバイスラグやドラッグラグの問題が巷で騒がれています。循環器の分野は、PCI(経皮的冠動脈形成術)も外科も、デバイスラグには長い間悩まされてきました。「医療鎖国状態」って憤る人も、決して少数ではありません。

心臓血管外科が専門ですので、それ関係の「ステンドグラフト(ステントといわれるバネ状の金属を取り付けた新型の人工血管)」のラグを例に、ラグがなぜ起こっているのかという推測の一つを指摘しておられます。
-----(ここから引用)-----
 例えばステンドグラフト(ステントといわれるバネ状の金属を取り付けた新型の人工血管)は、治療法の開発段階では技術的にもプロダクト的にも日本が世界のトップを走っていたのに、製品化される段階においては、海外メーカーに先を越されてしまいました。で、この2・3年で海外メーカーの製品が承認されて “逆輸入”できるようになったら、メディアに「世界で最新のテクノロジーの導入」なんていわれて脚光を浴びている・・・。ホント、がっかりです。

 あのころ、手作りながら日本でコツコツやっていた人たちのことを考えると、「こんな状況じゃ、この国から新しい医療機器が誕生するのを期待するのはかなり難しいなぁ」と落ち込みます。中には小さいながらも優秀なプロダクトを供給している会社はありますが、一方で、海外メーカーに技術をこそっと放出してしまう例も少なくありません。

 彼らが医療から手を引く理由は、承認審査のハードルの高さだけではありません。「医療ビジネスは危険!」って思っているからです。

 欧米では、医療のような不確かな分野での開発で結果的にしくじってもある程度の免責が認められるのが普通ですが、この国でしくじったら法的責任が厳しく問われます。加えて、程度が低いメディアの餌食になるリスクもあります。社会的な許容度が下がっていることの裏返しなのかもしれませんが、ちょっとしたミスだったとしても嵐のようなバッシングを受けかねません。これはある意味、法的責任を追及されるよりも恐ろしい・・・。

 結局のところ、デバイスラグやドラッグラグの問題の根っ子は、自らがリスクを負うことを極端に嫌う一方で、事前予測が困難なトラブルまで過失としてヒステリックに糾弾しがちな最近の日本の傾向にあるのかもしれません。メーカー、行政、医療関係者、患者のいずれもがリスクを負おうとせず、予測不能と思われるミスまで徹底的に非難されるのなら、デバイスラグやドラッグラグが深刻化するのは当たり前でしょう。

 デザインの世界では、リスクを避ける保守的な日本企業に見切りをつけ、アジアの企業に活躍の場を移す日本人のデザイナーが増えているそうです。確かに、グッドデザインエキスポを見ても、韓国や台湾、タイの企業の製品の方がよっぽどかっこいい!ただ、こうした状況って、やばいよなぁ…。

 「ノーリスク・ノーリターン」

 今の世の中は、社会的な許容度が低下し、ちょっとのことで大騒ぎになるだけに、「ノーリスク」志向が強まっているように感じます。デバイスラグのことを考えているうちに、日本の将来が本当に不安になってきました。
-----(引用、終わり)-----

コメント欄には、まさにこの手のノーリスク信者の典型的な反応もある。
このノーリスク信仰は、日本社会に堅く組み込まれているかもしれない。

また、日本社会は、個人の責任を追及しようとします。
あの尼崎における列車脱線事故(JR福知山線脱線事故)は記憶に新しい、そして今まさにその責任者とされた個人の刑事責任裁判が行われている。さらに、明石花火大会歩道橋事故。検察は起訴しなかったが検察審査会が起訴相当を議決し、これも刑事裁判となり、個人の刑事責任が問われている。

人が死んだんだぞ!
誰も責任を取らないのはおかしい!

日本は、こういう言説を当然のこととする社会なんでしょう。

私は、日本は人身御供を要求する社会なのかなという感じがしています。

外国はどうなんだろうか?

オーストリアケーブルカー火災事故では日本人観光客も含め多数の死者が出たが、最終的には、会社役員や政府関係者、誰も刑事責任を問われることなく無罪となった。これに対し、「誰も責任を取らないのはおかしい」との言説が日本では多く聞かれた。
これは日本に特異な現象なのだろうか、同じように多数の犠牲者が出た関係国では、どうだったのだろう?

私は、この手の事故に、個人の刑事責任を追求しても、社会の安全性は向上しないと思っています。
人身御供を捧げても、安全性は向上しない。
逆に阻害要因にさえなり得ると思う。
ノーリスク、ノーリターンであるばかりでなく、個人の責任追及によって隠れてしまう危険性が放置されてしまうからです。

故意によるものならまだ分かるのです。
殺人を犯した者の責任追及は、社会の安全性を向上させる。その責任を追及しない社会は安全性が低下する。
しかし、日本では、逆になっている。
故意で人を殺した場合は、さかんに犯罪者の人権を言い立てて保護しようとするくせに、この手の事故には、誰か責任者を作り上げて苛烈な社会的制裁を加えようとする。その制裁対象となった人の人権を守ろうと主張するマスコミや、あるいは人権保護活動家を見たことがない。
つまりは人身御供だということなのでしょう。
神に捧げられるわけですから、その人に人権など存在しない。

再度。
人身御供を捧げても安全性は向上しない。
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2010年12月21日

まだマスコミに望みを持っている人の言説

このMRICから送られてきたメールを、私は何度もまさにその通りという感じで読んだ。
しかし、もうこういう期待をマスコミにかけても無駄だという思いも、その裏で持っていたということを書いておかないといけない。
こと医療に関しては、彼らに期待しても無駄だと、もう思う。
我々は、我々にできることを、できることだけをやっていく。目の前の患者や家族だけを見て。

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朝日新聞「がんワクチン」報道をメディアの姿勢から考える

獨協医科大学神経内科 小鷹昌明
2010年12月21日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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 朝日新聞の「がんワクチン」報道に関する見解として、東京大学医科学研究所附属病院は事実誤認、歪曲、論点のすり替え、あるいは捏造の可能性を訴えている。本治験に携わっているわけでもなく、がんを専門にしているわけでもない、まったくと言っていい程の門外漢の私(北関東に位置する大学病院に勤務する神経内科医)ではあるが、こういう疑惑のメディア報道を耳(目)にすると、臨床の現場医師として一言申し上げたくなる。

 予め述べておくが、私は、今回のこの一連の作為的な報道とされる事件に関して、真相を知るすべもなく、その立場にいるものでもない。ネットから伝え聞く情報以上に真実を知る余地はないので、朝日新聞に誤認があるのか、ないのか、その真偽を伝えることはできない。醒めた目で熱く傍観しているだけである。私の伝えるべきことは、こうした報道を通じて、多くの勤務医師が何を感じ、どんな行動を起こすかということである。

 それは、一言で言うならば、「真実はどうあれ、朝日新聞は医療者の日頃の思いというものを考慮することなく、その地雷を踏んでしまった」ということである。また、「その報道は、切羽詰まった治験中の、あるいはワクチン治療に期待を寄せるがん患者に対しては、何の恩恵ももたらさない」ということである。

 メディアの使命というか、危機への耐性というものは、端的に言えば「政治的弾圧や世間からの風評、他のメディアからの批判、もっと言うなら軍隊やテロリストからの恫喝に屈しない」ということである。メディアは、そういうリスクと隣合わせで報道しなければならないということを自覚するべきである。さらに、新聞メディアの責務は、社会で発生している出来事について、できるだけ多くをわかりやすく、その背景と由来とを説明し、今後の展開をしっかり予測することである。

 そういう意味では、今回の事件について「責任を持って真実を伝えた」という自負はあるのかもしれない。しかし、医療者側からの「捏造」の可能性について、徹底的に抗議される可能性を本当に予測していたのであろうか。もし、そうしたことが想定の範囲外だとしたら、大野病院事件から何も学んでいないことになり、新聞メディアとしては深刻的な危機的状況にあると言わざるを得ない。

 医療者は、もうこれまでの医療者とは違う。現在の医療者のほとんどは、「医療崩壊」への道にマスコミが一定の割合でコミットしてきたと認識している。マスコミの一挙手一投足の報道に対して、真偽の目を向けている。正しい、間違いの問題ではない。「現場の医師はそう思っている」ということである。

 これまでメディアは、「患者や被害者側からの告発を選択的に報道し、医療側からの申し開きについては不信感を示す」という姿勢を採用することで、さまざまな医療報道を行ってきた。もちろん、私も社会的疑惑を暴き、糾弾し、正義を訴えてきた新聞報道のすべてを否定するつもりはない。ただ、医療報道を行う際に気付かなくてはならないことは、「批判さえしていれば、医療というものがどんどん改善していくわけではない」ということである。さらに言うなら、「メディアは、医療機関に対して仮借のない批判を向けることによってのみ医療の質が改善され、医療技術は進歩し、患者へのサービスは向上するという、空虚な幻想に取り付かれたままになっている現状に早く気付け」ということである。

 メディアが、テンポラリーに患者や被害者などの社会的弱者の味方に付くことは正しい。弱者の背後に回り、下支えすることにより議論の土俵にお互いを乗せることがメディアの役割である。あくまで議論の場を提供するという行為にのみ、メディアのとりあえずの役割がある。そこで冷静に議論し、その結果、弱者の主張に無理があったのならば、それを公平にジャッジして、正しく報道することがメディアの使命なのではないのか。私はそう思う。しかし、メディアは一度擁護した相手の主張が反証されて「弱者の言説には無理があった」と判明した場合に、それを打ち明けることは威信に懸けてけっしてしない。

 本事件では、告発した患者や被害者がいたわけではない。報道によって、がん患者がどれだけ困惑し、不安を感じたか。そういう自体になることを朝日新聞は本当に想像できなかったのであろうか。

 医療という公共的な資源を支えるためには、医療者をはじめとして国民全体で「身銭を切る」という自覚が必要である。非難することがメディアの仕事ではない。今のままだと、クレーマーたちとやっている行動が同じである。

 もうひとつ現場の医師が将来に対して不安に感じていることは、「医療をめぐる訴訟が、増えることはあっても減ることはないであろう」ということである。

 医療崩壊が叫ばれて以来、徐々にではあるが医療は再生してきていると感じている。栃木県においても、我が大学病院ではドクター・ヘリを導入したり、私たちの扱う神経疾患患者に関して言えば、神経難病ネットワークを構築したりして、「断らない医療」を実践すべく努力している。そんな些細な毎日の医療活動に、報道するべき事件なんかない。医療に関しては、当たり前の話題しかないのが本来の姿なのである。しかし、「今日も昨日と同じようにたくさんの方が治療を受けて良くなりました」という話題をメディアは歓迎しない。常にセンセーショナルな話題を切望する。

 医療の上げ足を取ることは、実は簡単なことである。なぜなら、私たちは常に不確実・不確定なことを試行錯誤で行っているからである。治験というものはその最たるものである。未承認の薬を実験的に使用しているのだから、当たり前である。


 私もこれまでに数々の治験に参加してきた。「有害事象」というのは、「薬物を投与された被験者に生じた、あらゆる好ましくない医療上の出来事」であり、必ずしも当該薬物の投与との因果関係が明らかなもののみを示すものではない(一方、副作用は、有害事象のうち因果関係が否定できないものを指す)。

 私は、治験中の患者が鍋で火傷を負ったり、転んで怪我をしたりした有害事象に対して、それは明らかに投薬や病気とは関係がないので(本人の不注意ではあるが)、治験コーディネーターと相談して「有害事象」に挙げなかった。これを権力者が指摘したら、私の取った判断は非難に値するであろう。「有害事象」に挙げなかったとして新聞で報道されたとしても文句は言えない。「皆がやっている」という言い訳は、監視する立場の人間には一切通用しないからである。

 社会が成熟してモラルやシステムが改善され、違法行為が少なくなればなるほど、権力側は自らの存在意義を持続させるために、これまでは問題にされなかった些細な違反を取り締まりの対象として強化する。

 12月6日付けで「医療報道を考える臨床医の会」に届けられた、朝日新聞の代理人弁護士からの「申し入れ書」を通読した。朝日新聞は、「捏造」の疑惑を撤回しなければ法的措置も辞さない構えに出ている。議論の場は司法に移される可能性がある。

 日本の弁護士が米国と比較して圧倒的に少ないことは事実であるが、その理由は、米国より弁護士を雇う事件が圧倒的に少ないからである。それをどう勘違いしたのか、日本の法務省はロースクールを設置したりして弁護士の合格者を増やす決定をした。新人弁護士の失業が増える可能性がある。メディアは、今後、喧嘩をふっかけることによって社会に変化を起こさせ、司法の介入をサポートする媒体として機能する世の中になっていくのではないかと勘ぐりたくなる。

 東京大学は紛れもなく日本最高峰の大学である。そこで働く医療者の研究が、優位に最先端医療という名目で治験の基準が緩和され、研究費も上乗せされ、大学がベンチャービジネスに乗り出すことも特例として許可されたかもしれない。東京大学の研究者を妬む人がいたのか、朝日新聞の記者が自分の業績を考えて無理な記事を書いたのか、それはわからない。

 ただ、ジャーナリストには、自分で書いた記事に関しては自分で責任を引き受ける覚悟が欲しい。私たち医師は自分の医療行為に対して、そういう覚悟で生きている。中村祐輔氏を糾弾したいのならば、「私たちは事実を伝えたかっただけです。後は世論が判断してください」という言い訳は通用しない。

 医療者側の抗議が留まることはないであろう。医療界は出河氏と野呂氏のことをけっして忘れない。今後も醒めた目で熱く傍観していく。「叩きさえしていれば医療は向上する」という呪縛から、もういい加減抜け出してもらいたい。医療者の士気をこれ以上削ぐようなことはしないでもらいたい。報道することによって世の中がどう変わるのか、あるいは変わらないのか、また、報道の責任を誰が背負うのか、「言論の自由」を唱うのであれば、そういうことをしっかり視野に入れて報道すべきである。
-----(引用、終わり)-----

私は先のブログ記事で、朝日には悪意があったのではないかと書いた。
ただの偽善者(倫理、倫理と叫んでいるだけのただの偽善者)ではなく、誰か、あるいはどこかのグループと仕組んで書いた記事ではないかという疑いをぬぐいきれない。この報道事件が起こってすぐに上先生が言っていたような、そういうたぐいの陰謀です。

ただの偽善者にしろ、こういうたぐいの悪意ある者にしろ、もし朝日のあの記事を書いた者、またあの記事をデカデカと載せた新聞社がこのどちらかであるとしたら、そういう者を相手に、こういう期待を寄せても無駄です。
報道の責任とかいう期待は、まともな者相手でないと無駄に終わる。
偽善者や悪意を持つ相手には無駄です。
posted by machiisha at 15:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月19日

珊瑚事件ふたたび(その7)

この事件、私は強い怒りを感じている。
倫理、倫理と叫んで、それで何か良いことをやっていると思い込んでいる者達の厭らしさを、醜さを感じるからです。そして、この手の者達がよくやることでもあるのですが、人倫に悖ると非難された側に具体的な根拠を持ち出されて反論されると、今度は議論のすり替えをやりだす。混合診療問題を持ち出したり、臨床試験の問題点を指摘するのが目的だとか。
(続)捏造報道の正当化・議論すり替えを図る朝日新聞(2010/12/06)
http://iryohodo.umin.jp/contents01.html#rinshoi1206

卑怯としか言いようがない。

10月15日に一面にデカデカと出した記事や社会面に書いた「患者出血「なぜ知らせぬ」 協力の病院、困惑」の記事、さらに社説の「研究者の良心が問われる」と、ナチスドイツの人体実験になぞらえてまで東大医科研や中村教授を非難した、そこからどこをどうやったら混合診療問題や臨床試験の問題点が浮き彫りになってくるのか?
議論のすり替え以外の何物でもない。

臨床試験や治験に問題点は当然ある。
しかし、この問題は難しい。我々医師でも理解することすら難しいし、ましてやその解決策などさっぱり分からない。朝日が言っているような「国家に一元化」などということで解決などしないだろうし、逆によけい悪くなりさえするかもしれない。

朝日が、臨床試験や治験の問題点を指摘したいというのなら、それをやればよい。現状はこれこれで、日本はこうなっており、世界はこうでと、詳しく解説し、複数の専門家の意見を載せ、その上で、こうやれば良いのではないかと、紙面を割いて主張すればよい。
それができるのならだけど、できるはずがないのです。
現状を、新聞読者に分かるように書くことさえも不可能と思います。新聞の全ページを使っても不可能だと思う。
治験対象者の人権を守ろうとか、そういうきれい事を並べて解決するような、そんな単純な問題じゃないのです。あの記事を書いた者達が、臨床試験や治験問題を理解しているとは思えないし、ましてやその解決策なども持ち合わせているとも思えない。だから、倫理、倫理とさけんでいるだけなのでしょう。

Yosyan先生が、この治験に関する考察をされています。
2010-11-13 治験のお話
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20101113
2010-11-15 もう一度、治験のお話
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20101115

癌ペプチドワクチンは、その研究者は、その有効性にかなり手応えを感じているようですが、本当に臨床で使えて、実際臨床上、目に見えて有効な効果を得られるようなものなのか、今のところは分からない。そんな現状であるだけに、莫大な資金と時間と人手をかけて臨床試験、治験をやるという製薬会社がないというのも容易に理解できる。だから、今はその研究者が手弁当のような形でほそぼそと臨床試験の初期の段階をやっている。
そういう現状のところに、国家に一元化し治験段階の厳密な方法論を適用しろなどとされたら、どうなるか。
誰も手をつけられない。少なくともこの日本では絶対に不可能でしょう。

「がんワクチンはプレリミナリーの段階」、国立がん研究センターでシンポ
http://www.m3.com/iryoIshin/article/128479/index.html?portalId=mailmag&mm=MD101118_CXX
-----(ここから引用)-----
 臨床試験と治験の乖離、オールジャパン体制が必要

 本シンポジウムでは、がんワクチン実用化に向けた制度の問題点についても取り上げられた。その一つは臨床試験と治験の間に乖離があること。国立がん研究センター中央病院血液腫瘍科・造血幹細胞移植科の平家勇司氏は、「米国では一つのパッケージとして、 FDA(米医薬食品局)が関わり、臨床試験と治験がシームレスに進行する。一方、日本では臨床試験と治験が全く違うフレームで行われており、無駄な手間がある。第I、II相試験を臨床試験で、第II、III相試験を治験で、という形が理想だが、現状は臨床試験と治験が別々に管理されている」と指摘した。

 この点について、三重大学遺伝子・免疫細胞治療学分野教授の珠玖洋氏は、試験薬製造に関わる問題を強調。治験のためには試験薬を治験薬のGMPに沿って製造する必要があるが、通常の研究用のスケールの製造では数十万円から数百万円のコストで済むが、 GMP製造だと数千万円から数億円と大きく跳ね上がる。臨床試験から治験への移行を容易にするために、珠玖氏は「GMP製剤を研究者の手の届くところに置くことが重要」と述べた。

 さらに「今の制度を受け入れた上で、どうワクチン開発を促進していくか」(平家氏)という視点から、珠玖氏は、開発資金支援、共同利用施設の拠点構築、専門領域のコンサルティング提供、製薬企業との早期のアライアンス、の4点の充実を通して、オールジャパン体制の構築を訴えた。同様に平家氏も全国規模のがんワクチン探索的臨床研究支援基盤「がん免疫療法ネットワーク」を立ち上げ、研究者主体の臨床研究を支援し、企業治験を誘導する流れを作る必要があると意見を述べた。

 特許がなければ製剤化困難

 「No patent、No care」(特許がなければ病気を治せない)。この言葉を出して特許の重要性を指摘したのは、脳腫瘍や種々の固形がんに対するWT1ペプチドワクチンの臨床開発を進めている大阪大学大学院医学系研究科機能診断学教授の杉山治夫氏。杉山氏は「独占できる権利がないものに、リスクを取って企業は手を出さない。研究者として特許を取得すると製剤化の邪魔になると思っていたが、むしろ特許がなければ製剤化は難しい」と経験を踏まえて発言。また、WT1ペプチドワクチンの開発に関して、「1992年に基礎研究をスタート、2018年頃に製剤化が見込まれている。ここまで26年という時間を必要とする計算」と臨床開発の長い道のりを強調した。
-----(引用、終わり)-----

こんな現状であることは、朝日も分かっているはずです。
にもかかわらず、なぜあんな記事を書いたのか?

癌の免疫療法については、他に重大な、そして大きな問題がある。
卵巣がん体験者の会スマイリー代表 片木美穂さんも指摘している「イチャモン免疫療法」の方が、はるかに重大問題のはずです。多くが臨床試験と称してやっているが、もちろん東大医科研がやっているようなきちんとした臨床試験ではない。いや臨床試験とさえ呼ぶのがおこがましいような、ただの詐欺行為でしかないのが多いと思う。
その問題を記事にした方が、はるかに臨床試験や治験の問題点を指摘することになったはず。
なぜこれをせず東大医科研や中村教授を持ち出したのか?

陰謀論に傾きそうになってしまう。
朝日新聞に悪意を、それも故意の悪意があったのではないかという陰謀論に。
posted by machiisha at 12:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする