ドラッグラグが話題ですが、他にもデバイスラグ、ワクチンラグなどもある。
癌治療で苦労している人達は、特に患者や家族、関係者は、外国では承認され、そして既に実績もあるような薬を、少しでも速く日本でも健康保険で使えるようにと発言しそして運動もされている。なんとかしてほしい、私たちには時間が残されていないのだと悲鳴さえあげておられる。
しかし、ドラッグラグ、デバイスラグがあるのは、政府の責任にされることが多いけど、本当にそうなのかと、私は前から疑問に思っている。
今、政府、特に官僚は、この手の問題には、羮に懲りて膾を吹くという状態になっている。
薬害、薬害と言い立てて、その責任を製薬会社やその許認可に関わった官僚組織、さらには個人に負わそうとする。被害者という弱者、その味方面したマスコミと大衆がバッシングし、刑事責任まで追求する。司法までそれに影響されて、実際に有罪を宣告されることもあるし、有罪とならなくても、その社会的追求は苛烈を極める。あのミドリ十字問題しかりです。今の肝炎ビールス問題など、まだ程度が軽いとさえ言える、まだ個人へのバッシングが少ないですから。
こういう社会では、パイオニアたろうとする個人、団体(製薬会社、製造会社、官僚個人もそう)の腰が引けるのは当然だろうと容易に理解できる。
もしも有害事象が発生した場合、自分もあのようにバッシングされるのかと思ったら、会社も人も破滅させられるのかと思ったら、今の地位のまま、何もせずにおろうと思うのは当然でしょう。やっているというポーズを見せないといけないので、政府や官僚、議員さん達は、審議会みたいなのを作って、やっているよというのを見せておく。これは、もし有害事象が起こっても、ちゃんと慎重審議をしたよと言えるし、さらには責任分散を計っておけるのだから一石二鳥でもある。そうして時間だけが過ぎていく。これじゃ、ドラッグラグ、デバイスラグが起こって当然です。
日経メディカルブログにデバイスラグ問題と日本の「ノーリスク志向」という記事が載っていた。
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/tedoriya/201010/516763.html
著者:手取屋岳夫(昭和大学医学部胸部心臓血管外科主任教授)
>ここのところ、デバイスラグやドラッグラグの問題が巷で騒がれています。循環器の分野は、PCI(経皮的冠動脈形成術)も外科も、デバイスラグには長い間悩まされてきました。「医療鎖国状態」って憤る人も、決して少数ではありません。
心臓血管外科が専門ですので、それ関係の「ステンドグラフト(ステントといわれるバネ状の金属を取り付けた新型の人工血管)」のラグを例に、ラグがなぜ起こっているのかという推測の一つを指摘しておられます。
-----(ここから引用)-----
例えばステンドグラフト(ステントといわれるバネ状の金属を取り付けた新型の人工血管)は、治療法の開発段階では技術的にもプロダクト的にも日本が世界のトップを走っていたのに、製品化される段階においては、海外メーカーに先を越されてしまいました。で、この2・3年で海外メーカーの製品が承認されて “逆輸入”できるようになったら、メディアに「世界で最新のテクノロジーの導入」なんていわれて脚光を浴びている・・・。ホント、がっかりです。
あのころ、手作りながら日本でコツコツやっていた人たちのことを考えると、「こんな状況じゃ、この国から新しい医療機器が誕生するのを期待するのはかなり難しいなぁ」と落ち込みます。中には小さいながらも優秀なプロダクトを供給している会社はありますが、一方で、海外メーカーに技術をこそっと放出してしまう例も少なくありません。
彼らが医療から手を引く理由は、承認審査のハードルの高さだけではありません。「医療ビジネスは危険!」って思っているからです。
欧米では、医療のような不確かな分野での開発で結果的にしくじってもある程度の免責が認められるのが普通ですが、この国でしくじったら法的責任が厳しく問われます。加えて、程度が低いメディアの餌食になるリスクもあります。社会的な許容度が下がっていることの裏返しなのかもしれませんが、ちょっとしたミスだったとしても嵐のようなバッシングを受けかねません。これはある意味、法的責任を追及されるよりも恐ろしい・・・。
結局のところ、デバイスラグやドラッグラグの問題の根っ子は、自らがリスクを負うことを極端に嫌う一方で、事前予測が困難なトラブルまで過失としてヒステリックに糾弾しがちな最近の日本の傾向にあるのかもしれません。メーカー、行政、医療関係者、患者のいずれもがリスクを負おうとせず、予測不能と思われるミスまで徹底的に非難されるのなら、デバイスラグやドラッグラグが深刻化するのは当たり前でしょう。
デザインの世界では、リスクを避ける保守的な日本企業に見切りをつけ、アジアの企業に活躍の場を移す日本人のデザイナーが増えているそうです。確かに、グッドデザインエキスポを見ても、韓国や台湾、タイの企業の製品の方がよっぽどかっこいい!ただ、こうした状況って、やばいよなぁ…。
「ノーリスク・ノーリターン」
今の世の中は、社会的な許容度が低下し、ちょっとのことで大騒ぎになるだけに、「ノーリスク」志向が強まっているように感じます。デバイスラグのことを考えているうちに、日本の将来が本当に不安になってきました。
-----(引用、終わり)-----
コメント欄には、まさにこの手のノーリスク信者の典型的な反応もある。
このノーリスク信仰は、日本社会に堅く組み込まれているかもしれない。
また、日本社会は、個人の責任を追及しようとします。
あの尼崎における列車脱線事故(JR福知山線脱線事故)は記憶に新しい、そして今まさにその責任者とされた個人の刑事責任裁判が行われている。さらに、明石花火大会歩道橋事故。検察は起訴しなかったが検察審査会が起訴相当を議決し、これも刑事裁判となり、個人の刑事責任が問われている。
人が死んだんだぞ!
誰も責任を取らないのはおかしい!
日本は、こういう言説を当然のこととする社会なんでしょう。
私は、日本は人身御供を要求する社会なのかなという感じがしています。
外国はどうなんだろうか?
オーストリアケーブルカー火災事故では日本人観光客も含め多数の死者が出たが、最終的には、会社役員や政府関係者、誰も刑事責任を問われることなく無罪となった。これに対し、「誰も責任を取らないのはおかしい」との言説が日本では多く聞かれた。
これは日本に特異な現象なのだろうか、同じように多数の犠牲者が出た関係国では、どうだったのだろう?
私は、この手の事故に、個人の刑事責任を追求しても、社会の安全性は向上しないと思っています。
人身御供を捧げても、安全性は向上しない。
逆に阻害要因にさえなり得ると思う。
ノーリスク、ノーリターンであるばかりでなく、個人の責任追及によって隠れてしまう危険性が放置されてしまうからです。
故意によるものならまだ分かるのです。
殺人を犯した者の責任追及は、社会の安全性を向上させる。その責任を追及しない社会は安全性が低下する。
しかし、日本では、逆になっている。
故意で人を殺した場合は、さかんに犯罪者の人権を言い立てて保護しようとするくせに、この手の事故には、誰か責任者を作り上げて苛烈な社会的制裁を加えようとする。その制裁対象となった人の人権を守ろうと主張するマスコミや、あるいは人権保護活動家を見たことがない。
つまりは人身御供だということなのでしょう。
神に捧げられるわけですから、その人に人権など存在しない。
再度。
人身御供を捧げても安全性は向上しない。
2010年12月26日
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