講演に先立ち資料が配布されたのですが、講演はその資料に乗っ取りスライドは一切使用せず前で話されるというスタイルです。
これで聴衆を引き込む力は、さすがとしか言えません。内容の深さ、皆を納得させる論理の展開などによるものでしょう。
資料の最初にまとめが書かれています。
医療を崩壊させないために
医療事故調査制度についての考え方と提案
1)厚生労働省第二次試案は患者と医療提供者の軌轢を大きくする。軌轢は、紛争になりやすい救急重傷患者の診療を避けることにつながり、医療崩壊を決定的なものにする。
2)第二次試案は、全体主義的統制医療をもたらし、医療の自律性を奪い、医療の進歩と国民への適切な医療の提供を阻む。
3)したがって、第二次試案には断固反対である。
4)なによりも、患者・家族の理解と納得を高めるよう支援して、医療提供者との軌轢を少なくするための対策が求められる。
5)医療問題は複雑であり、対策の結果が期待通りになるとは限らない。取り返しのつかない失敗を避けるためには、多段階で時間をかけて、関係者の変化を確認しつつ、対応していくべきである。
講演は、この主張のより詳しく、そして根拠を示して述べるものでした。
以下、私が特に重要と考えた部分を書いておきます。
1、医師の士気喪失の象徴となったのが、刑事司法の介入である。
刑事司法の介入は、数は少ないが、決定的である。
2、言語論理体系の齟齬、演繹と帰納(演繹は司法、帰納は医療)
日本の刑法はドイツ観念論の系譜にあり、理念からの演繹という論理構成をとる。医療現場は刑法の理念をそのまま適用できるほど単純ではない。
私は、刑法は「痛々しいほど危うい」、「刑法を落ち着いたものにするには、帰納による理念の妥当性の検証が必要である」と書いた。
規範的予期類型(司法)と認知的予期類型(医療)
司法、政治、メディアはものごとがうまくいかないとき、規範や制裁を振りかざして、相手を変えようとする。これに対し、医療、工学、航空運輸など専門家の世界では、うまくいかないことがあると、研究や試行錯誤を繰り返して、自らの知識・技術を進歩させようとする。あるいは、規範そのものを変更しようとする。
日本では、現在のような刑法レジームは、明治期に形成された。現在の刑法は明治41年(1908)に施行されて移行、本格的改正はされていない。原則的な対象として国内の個人を想定した1世紀前の古い法律が、国際的な部分社会内で合理性が形成され、日々更新されている医療レジーム、航空運輸レジーム、産業レジームなどと対立し、ときに破壊的な影響を与えているようにみえる。対立の共通構造は、現実を十分に認知しないまま、規範としての法を行使することにある。
法学はしばしば神学になぞらえられる。地動説に対する宗教裁判は、規範的予期類型と認知的予期類型の齟齬を象徴する。
(規範的予期類型はいくらがんばろうが認知的予期類型には勝てないと言われていました。)
3、刑法211条 業務上過失致死傷罪
過失を犯罪として処罰することには二つの問題がある。
単純過失は罪か
2003年3月、東京都足立区の東部伊勢崎線踏むきり事故の例。
社会は、この事件を個人の責任とした。会社は男性を懲戒解雇にし、刑事司法は逃げも隠れもしない善良な下積みの男性を、逮捕起訴し、有罪にした。
(これは真っ当な社会のすることか、これで社会はより安全になったのか?)
結果の重大性と被害者側の処罰感情
医療はその性質上、業務上過失致死傷で訴えやすい。検察は起訴するかどうかの判断について明確な基準を描けておらず、被害の重大性、被害者側の処罰感情を判断材料にしている。(検察がそう言明している)
業務上過失致死傷罪の議論のあり方
医療事故の調査制度は刑事免責とからめて議論しないといけない。
業務上過失致死傷罪が問題となっているのは医療だけではない。他の分野も巻き込んだ大きな議論が必要である。
4、医師法21条
刑事司法と医療の問題を複雑にしているのは医師法21条であるが、本来、業務上過失致死傷罪の問題と比べたら小さな問題に過ぎない。
医師法21条については、本来の趣旨からみても、医療との関連で議論すべきではなく、かねてより大きな欠陥が指摘されている変死体の医学的検索制度、司法解剖制度との関連で議論すべきものである。医師法21条が問題化した主たる原因が厚労省にあること、官庁は過去の行動を無理をしても正当化する傾向があることから、厚労相の判断にはバイアスがかかる可能性が高い。厚労省が議論を取り仕切るのは論理的に問題がある。
5、厚労省第二次試案
「診療行為に関連した死因究明等の在り方に関する検討会」
(小松先生はこの審議会に参加したかったのだそうですが、入れてくれなかったとの言われていました)
この審議会の座長である前田氏は、目的を「法的責任追及に活用」とはっきり述べている。
基本理念
最大の問題点は理念部分である。「安全・安心」という言葉が使われている。安全という一つの状態は医療にはない(そもそも医療というのは非常に危険な行為である、その本質からして)。安全はリスクと同義で変数に過ぎない。安心が得られるかどうかは、個人の心の中での安心の基準に依存するので、医療側から提供できる問題ではない。医療側がいかに努力しようと、誰にとっても死は不可避なので、個人が死を恐れる限り安心は得られない。
理念の第三番目の項目がこの制度の基本的性格を示す。
原因究明の目的は、反省・謝罪を求めること、責任追及、再発防止にあるとしている。文言上は、前田座長の主張通り「法的責任追及」が主目的となっている。
被害者側がよく原状回復をと訴えるが、原状回復とは訴訟のためのケンカ言葉である。(確かによくヤクザが不当要求にこの言葉を使用する。そもそも死んだ人が生き返るのか!)
組織
真相究明は、本来、心理の探究という意味で、学問そのもの、つまり、医学そのものである。医学的調査は、医学を基盤に、あらゆる予断なしに、また、規範に束縛されることなく、観察して、厳密に認識するところに特徴がある。
刑事における真相究明とは、刑罰という法律効果を発生させるために、犯罪構成要件という法律要件に該当する存否を確認しようとして、刑事訴訟特有の手続きを進めていくことである。(これは科学ではない)
民事における真相究明も、損害賠償という法律効果を発生させるための手続きを進めていくことである。科学と異なり、議論は構成要件、要件事実に絞られる。(つまり、これも科学ではない)
感情や規範とは一切かかわりを持たない冷徹な医学的認識、法という規範に基づくとともに被害者感情の影響を受けることを是とする法的認識、「遺族の立場を代表する者」の感情に基盤を置く認識、三者は認識の基盤が異なる。厳しい対立が生じた場合、報道や政治の影響が強い場合、これら三者が納得して一つの報告書に到達できるとする前提には無理がある。(つまり不可能だ)
個人の処罰との関係
第二次試案は、行政処分拡大の方針を明確にしている。
調査報告書が責任追及に活用されると、院内事故調査委員会での議論が大きく変化する。
多くの病院で、医療事故をシステムの問題として捉え、ヒューマンエラーを処罰の対象としていないが、これが変質してくる。
処罰を前提とした調査は、科学的調査と異なり、遺族と医療従事者の対立を高める。さらに、病院の管理者と現場の医療従事者の間にも疑心暗鬼を生み、また厚労省と病院と間の溝を深め、行政そのものに支障を来しかねない。
再発防止
事故情報は匿名化して、既存の医療事故防止センターの専門家の下に集め、重み付けをして、総合的に対策を考えるべきである。
6、第二次試案発表後の経緯
11月1日に自民党の医事紛争処理の在り方検討会が開かれ、この席で、日本医師会、診療行為に関連した死因の調査分析モデル事業運営委員会(学会代表)、日本病院団体協議会の三者が第二次試案に賛成した(多くの医療関係者はこの経緯を知らされていなかった)。自民党は、これでほとんどの医師がこの案に賛成していると理解した。その翌日、日本内科学会と日本外科学会が、連名で第二次試案に賛同する意見書を発表した。
従来の医療政策決定過程を踏襲したものと思われるが、現場の医療従事者の意見が欠落している。現場との対立があるとき、立場によってはこのプロセスは卑劣なものに映る。
7、医療における正しさは誰が決めるのか
第二次試案は、実質的に「正しい医療」を厚労省が決めることを意味する。「正しい医療」は、本来、「医学と医師の良心」に基づいて専門家が提示すべきものである。これを社会が批判することでさらに適切なものになっていく。
行政は、医療における正しさというような価値まで扱うべきではない。明らかに行政の分を超えている。
医学における正しさは仮説的であり、暫定的である。この故に議論や研究が続く。新たな知見が加わり、進歩がある。行政機関が宗教裁判のように権威で裁定してしまうと、判断が固定化され、学問の進歩を損ねる。医学による厚労省のチェックが奪われ、国の方向を過つ可能性がある。規範に基づいた権威による裁定は、医学-医療になじまない。医療システムの外で行うべきである。
第二次試案が実現すると厚労省は医療の全てを支配する。旧共産圏で観察されたように、全体主義的統制医療は自律性を奪い、医療の進歩と国民への適切な医療の提供を拒む。
第二次試案には権限と組織を大きくしようとする官僚の習性が見え隠れする。実施すべきことは、厚労省の業務の基本理念を見直し、その権限を縮小することである。実際に、厚労省は科学が持つ判断の柔軟性を欠く。例えば、明らかな間違いがあったと分かっても、官報に掲載された判断をそのまま押し通そうとするような官としての性癖を色濃く持っている。
8、提案
今後、医師が取り組みべきことは、自浄努力である。欧米諸国では、社会に提供する医療の質の向上を責務とする前臨床医参加の専門職団体が、正しい医療とは何かを提示し、卒前、卒後教育を監視し、再教育を主体とした自律的処分制度を運用している。自らを律する気位の高い専門職団体の存在は、医療問題の解決を容易にする。
(自分たちの利害だけを主張するようなことをしていては駄目だよということでしょう、これは日本医師会への皮肉だと思います)